三回忌。
そらです。久々に晴天が続きますね。3連休、いかがでしたか?
土曜日はきゅぶと買物へ。途中お茶を飲んで独身時代のことを語り合ったりし、何だか久しぶりに恋人気分。・・・風邪で鼻がぐずぐずでしたが(笑)。夕方には帰宅し、「マイ・ビッグ・ファット・ウェディング」のDVDを観つつ、のんびり過ごす。好きな映画でした。
日曜日、父の三回忌を行いました。父の会社の方と、親族たちと、と少人数ではありましたが気持ちよく晴れて本当によかった。久々にお坊さんにも会った。恙無く・・・と言おう思ったけど、実際かーなりドタバタだった。ま、、、ここには詳細は書くまい(笑)。
法事のあと、中華で会食。その後、親族たちとともに実家に行き、そのありえない人口密度と長時間着っぱなしのスーツ(あたしときゅぶだけは着替えることができなかったので)と治りかけだがひどい症状の風邪(鼻から咳へ移行)に耐え切れず、うちに宿泊予定のstepbros夫妻を引き連れて退散。中国茶をがぶ飲みしつつ喋って過ごした夜でした。
で、昨日は午後からstepbros夫妻をお見送りがてら、お台場の日本科学未来館へ。
stepbros兄貴の知人が関わっているそうで行ってみたのですが、何ていうか、懐かしい気分になった。こういう場所に足を踏み入れたのはこどもの頃の社会科見学以来じゃないかと。面白かったです。あまり時間がなかったのでざっとみただけだったのだけど、うん、ちょっとゆっくり時間をかけてみたい気がする。夕方、東京駅で別れました。遠いところご苦労様&ありがと。
夜はきゅぶとまたDVDを観て過ごす。何度も観てる「天使にラブ・ソングを・・・」と「天使に・・・2」の2本立て。途中、風月さんよりお花のプレゼントが届く。で、相変わらず咳がひどいのでさっさと寝ました。
あたしたち夫婦にしては珍しく忙かった週末。
もう、父が亡くなって2年経つと思うと不思議な気がします。もう、って気持ちと、まだ、って気持ちと。去年はまだお墓も出来たばかりだったし、記憶ももっと、生々しかったけれど、あれから何度も墓を訪れて、何度も父不在の実家を訪れて、良くも悪くもそのことに慣れ、確実に過去の出来事になりつつあるのを感じます。そのことをちょっぴり寂しくも感じるし、無駄にちょっぴり罪悪感も感じるし、あたしはあたしの現実を歩んでいるという安心感にもつながっている、という気もする。父方の従妹たちは結婚し、赤ちゃんも生まれた。母は仕事を見つけ、弟は大学院に通い始めた。あたしときゅぶは、泣いたり笑ったり暴れたりしながら夫婦としての2年間を過ごした。
何組かのカップルが新しい家族になり、それを見送りもした。
長いようで短くて、でもやっぱり長い2年という月日。
哀しいとか、嬉しいとかじゃなく、実感したのは確実に時は過ぎていくんだな、ということでした。
そして、想いも昇華していく。
寂しさが押し寄せることがあっても、もうそのことで泣いたりすることもありません。去年、爆発しそうなものを常に抱えた1年だったと、そう語りましたが、この1年は、静かに強かに今の有りようを見ていた気がします。
今日は、もう昨日か、父の命日でした。
なんだか気疲れしたな。おやすみなさい。
土曜日はきゅぶと買物へ。途中お茶を飲んで独身時代のことを語り合ったりし、何だか久しぶりに恋人気分。・・・風邪で鼻がぐずぐずでしたが(笑)。夕方には帰宅し、「マイ・ビッグ・ファット・ウェディング」のDVDを観つつ、のんびり過ごす。好きな映画でした。
日曜日、父の三回忌を行いました。父の会社の方と、親族たちと、と少人数ではありましたが気持ちよく晴れて本当によかった。久々にお坊さんにも会った。恙無く・・・と言おう思ったけど、実際かーなりドタバタだった。ま、、、ここには詳細は書くまい(笑)。
法事のあと、中華で会食。その後、親族たちとともに実家に行き、そのありえない人口密度と長時間着っぱなしのスーツ(あたしときゅぶだけは着替えることができなかったので)と治りかけだがひどい症状の風邪(鼻から咳へ移行)に耐え切れず、うちに宿泊予定のstepbros夫妻を引き連れて退散。中国茶をがぶ飲みしつつ喋って過ごした夜でした。
で、昨日は午後からstepbros夫妻をお見送りがてら、お台場の日本科学未来館へ。
stepbros兄貴の知人が関わっているそうで行ってみたのですが、何ていうか、懐かしい気分になった。こういう場所に足を踏み入れたのはこどもの頃の社会科見学以来じゃないかと。面白かったです。あまり時間がなかったのでざっとみただけだったのだけど、うん、ちょっとゆっくり時間をかけてみたい気がする。夕方、東京駅で別れました。遠いところご苦労様&ありがと。
夜はきゅぶとまたDVDを観て過ごす。何度も観てる「天使にラブ・ソングを・・・」と「天使に・・・2」の2本立て。途中、風月さんよりお花のプレゼントが届く。で、相変わらず咳がひどいのでさっさと寝ました。
あたしたち夫婦にしては珍しく忙かった週末。
もう、父が亡くなって2年経つと思うと不思議な気がします。もう、って気持ちと、まだ、って気持ちと。去年はまだお墓も出来たばかりだったし、記憶ももっと、生々しかったけれど、あれから何度も墓を訪れて、何度も父不在の実家を訪れて、良くも悪くもそのことに慣れ、確実に過去の出来事になりつつあるのを感じます。そのことをちょっぴり寂しくも感じるし、無駄にちょっぴり罪悪感も感じるし、あたしはあたしの現実を歩んでいるという安心感にもつながっている、という気もする。父方の従妹たちは結婚し、赤ちゃんも生まれた。母は仕事を見つけ、弟は大学院に通い始めた。あたしときゅぶは、泣いたり笑ったり暴れたりしながら夫婦としての2年間を過ごした。
何組かのカップルが新しい家族になり、それを見送りもした。
長いようで短くて、でもやっぱり長い2年という月日。
哀しいとか、嬉しいとかじゃなく、実感したのは確実に時は過ぎていくんだな、ということでした。
そして、想いも昇華していく。
寂しさが押し寄せることがあっても、もうそのことで泣いたりすることもありません。去年、爆発しそうなものを常に抱えた1年だったと、そう語りましたが、この1年は、静かに強かに今の有りようを見ていた気がします。
今日は、もう昨日か、父の命日でした。
なんだか気疲れしたな。おやすみなさい。
この1年。
そらです。関東地方、久々に晴れましたね。
今日はずっと、実家の方の掃除をしておりました。埃等々のアレルギーで鼻がぐずぐずです。
寒かったから、風邪もあるのかもしれない。10月に入ってからというもの、何だか休まるときが
ありません。
父の命日の前日に、父の存命中にも死後にも、大変お世話になっていた方が亡くなりました。
10日には父の墓参りに来る、と周りの人にも言っていて、お花を買ったり準備をしていた、らしい。
それが突然の他界。
一昨日のお通夜にはおかんに弟が付き添い、昨日の告別式にはあたしが一緒に出かけました。
娘さんの挨拶を聞き、その後、以前同じ社宅に住んでいた方などと話し、いろいろ、思いました。
昨日の夕方、あたりが薄暗くなってから、ようやく父のお墓参りに行きました。入れ違いにどなた
か来て下さったらしく、まだ燃えているお線香が、あった。
娘さんが、「本当にあっけなく、今も信じることができない」とおっしゃっていて痛ましかった。
あたしたちだって、結果として思っていたより短くて、でも前もってわかってはいて、心の準備を
していないわけじゃなかったけれど、実際にはそんなものはできてなくて、あまりにもあっけなく
信じられない、と思ったわけで。
この1年のことを思います。肉親が死ぬということは、想像するのと、実際にそうなるのとは全然
違う、とまざまざと感じた1年でした。予想される寂しさや哀しみは当然のこと、例えば法事のこと
や父の会社関係のことなど、実質的に困惑することも多かった。節目節目は意外に事務的なこと
に忙殺されたりして、人が思うよりは乾いていたし、違う部分で困惑していた。家族として、考える
べきこともたくさんあって、苛立っても仕方ないのに苛立つこともたくさんあった。
そして、本当の哀しみは、いつもあまりにも何気ないときに突然やってくる。
例えば、実家で人数分のお茶を入れたときとか。例えば、電車の中で傘をたたむときとか。
そういう日常の思い出、その、父の不在の寂しさ。
それ以上にむしろ強かった、残された者の心もとなさ、それを思うときの哀しさ。
父さんさえ元気ならこんなことで悩まなくてもいいのに。そう思うときのやりきれなさ。
いつまで、と周りの人が思っているんじゃないか、と感じるときの焦り。
哀しいだけじゃない、美しい耳障りのいい言葉だけでは語れない、その他諸々の感情。
爆発しそうなものを常に抱えて過ごした、1年でした。
これからもまだまだいろいろと思うんだろう。だけど、これからの年月で、きっと違うことを感じ、
違うことを考え、やがて想いは昇華されるんだろう。そう、祈る。
最後になりましたが、あれこれ気遣ってくれた方々、励ましてくれた方々、どうもありがとう。
それからきゅぶ。ついつい余裕がなくなると素っ気無くしてしまったりするけれど、いつも感謝
してます。ありがとう。こんなあたくしですが、これからもよろしくね。
また、気持ちを切り替えて頑張ろうと思います。
今日はずっと、実家の方の掃除をしておりました。埃等々のアレルギーで鼻がぐずぐずです。
寒かったから、風邪もあるのかもしれない。10月に入ってからというもの、何だか休まるときが
ありません。
父の命日の前日に、父の存命中にも死後にも、大変お世話になっていた方が亡くなりました。
10日には父の墓参りに来る、と周りの人にも言っていて、お花を買ったり準備をしていた、らしい。
それが突然の他界。
一昨日のお通夜にはおかんに弟が付き添い、昨日の告別式にはあたしが一緒に出かけました。
娘さんの挨拶を聞き、その後、以前同じ社宅に住んでいた方などと話し、いろいろ、思いました。
昨日の夕方、あたりが薄暗くなってから、ようやく父のお墓参りに行きました。入れ違いにどなた
か来て下さったらしく、まだ燃えているお線香が、あった。
娘さんが、「本当にあっけなく、今も信じることができない」とおっしゃっていて痛ましかった。
あたしたちだって、結果として思っていたより短くて、でも前もってわかってはいて、心の準備を
していないわけじゃなかったけれど、実際にはそんなものはできてなくて、あまりにもあっけなく
信じられない、と思ったわけで。
この1年のことを思います。肉親が死ぬということは、想像するのと、実際にそうなるのとは全然
違う、とまざまざと感じた1年でした。予想される寂しさや哀しみは当然のこと、例えば法事のこと
や父の会社関係のことなど、実質的に困惑することも多かった。節目節目は意外に事務的なこと
に忙殺されたりして、人が思うよりは乾いていたし、違う部分で困惑していた。家族として、考える
べきこともたくさんあって、苛立っても仕方ないのに苛立つこともたくさんあった。
そして、本当の哀しみは、いつもあまりにも何気ないときに突然やってくる。
例えば、実家で人数分のお茶を入れたときとか。例えば、電車の中で傘をたたむときとか。
そういう日常の思い出、その、父の不在の寂しさ。
それ以上にむしろ強かった、残された者の心もとなさ、それを思うときの哀しさ。
父さんさえ元気ならこんなことで悩まなくてもいいのに。そう思うときのやりきれなさ。
いつまで、と周りの人が思っているんじゃないか、と感じるときの焦り。
哀しいだけじゃない、美しい耳障りのいい言葉だけでは語れない、その他諸々の感情。
爆発しそうなものを常に抱えて過ごした、1年でした。
これからもまだまだいろいろと思うんだろう。だけど、これからの年月で、きっと違うことを感じ、
違うことを考え、やがて想いは昇華されるんだろう。そう、祈る。
最後になりましたが、あれこれ気遣ってくれた方々、励ましてくれた方々、どうもありがとう。
それからきゅぶ。ついつい余裕がなくなると素っ気無くしてしまったりするけれど、いつも感謝
してます。ありがとう。こんなあたくしですが、これからもよろしくね。
また、気持ちを切り替えて頑張ろうと思います。
別れの季節に、思うこと。
「まさか父さんと今年の桜が見れないなんて思ってもみなかったわ。今度は信濃桜を見に
行こう、とか当たり前に思ってたのに。」
と母が言った。そんなことを言っても仕方ないんだけど、と薄く笑いながら。
去年の春、桜の咲く頃、私は婚約をした。1年後の今、父がいないなんて思ってもみなかった。
人工透析が必要になるかもしれない、という予感はあったけれど。
夏の終わりから初秋にかけての、濃密な時間を思う。
例えば、点滴の落ちる速度や、
例えば、透析機のうなる音や、
例えば、あの病室の暗がりで密やかに話をしたことや、
例えば、「癌なんか?」と問いかけた父のことや、
例えば、ベンチで夜中に猫とともに煙草を吸ったことや、
例えば、顔を真っ赤にして必死に心臓マッサージを行った先生たちや、
例えば、剥いた柿が放置されたまま乾燥していたことや、
例えば、雨だれの中タクシーで病院に向かったことや、
例えば、喫茶店から見た横断歩道を渡る母の後姿が小さかったことや、
例えば、看護師さんたちの優しい手や、
例えば、暗がりから目頭を手の甲で拭いながら出てきた先生を目撃したことや、
例えば、カンファレンスを受けた部屋の様子や、
例えば、病室から見えた朝焼けや、
例えば、先生のあまり上手くない字や、
例えば、サインした様々な書類や、
例えば、泣き崩れた弟や、
例えば、人が生きている証であるかのような様々な物音や、
例えば、こっそりと外に出て1人で泣いたことや、
例えば、洗面台の灯りの下で読んだ本や、
例えば、面会に来た友人たちが帰った後の寂しそうな父の顔や、
例えば、意識が混濁した父と寄り添う母の壮絶な、けれど愛に満ちた姿や、
例えば、懸命に自分を抱きしめたことを
あのとき、必死で見つめたものや必死で聞いた音を
生きる力を
私は忘れないだろう、と思う。
時間は止まっているようで確実に流れていて、
その流れに上手く乗れずに立ち止まっているようでいて、
ほんの少しずつではあるけれど、確実に変化しているものも、ある。
あれからもう、半年近くが経って、それでもまだ、泣けてしまうけれど。
新しい季節が巡ってくる度に、父がいたその季節のことを思い出して泣けてしまうけれど。
取り残されているような、流されているような、歪んだ時間の中で、
私は、私たちは、前進しようとしている。
桜の季節がまた来る。
行こう、とか当たり前に思ってたのに。」
と母が言った。そんなことを言っても仕方ないんだけど、と薄く笑いながら。
去年の春、桜の咲く頃、私は婚約をした。1年後の今、父がいないなんて思ってもみなかった。
人工透析が必要になるかもしれない、という予感はあったけれど。
夏の終わりから初秋にかけての、濃密な時間を思う。
例えば、点滴の落ちる速度や、
例えば、透析機のうなる音や、
例えば、あの病室の暗がりで密やかに話をしたことや、
例えば、「癌なんか?」と問いかけた父のことや、
例えば、ベンチで夜中に猫とともに煙草を吸ったことや、
例えば、顔を真っ赤にして必死に心臓マッサージを行った先生たちや、
例えば、剥いた柿が放置されたまま乾燥していたことや、
例えば、雨だれの中タクシーで病院に向かったことや、
例えば、喫茶店から見た横断歩道を渡る母の後姿が小さかったことや、
例えば、看護師さんたちの優しい手や、
例えば、暗がりから目頭を手の甲で拭いながら出てきた先生を目撃したことや、
例えば、カンファレンスを受けた部屋の様子や、
例えば、病室から見えた朝焼けや、
例えば、先生のあまり上手くない字や、
例えば、サインした様々な書類や、
例えば、泣き崩れた弟や、
例えば、人が生きている証であるかのような様々な物音や、
例えば、こっそりと外に出て1人で泣いたことや、
例えば、洗面台の灯りの下で読んだ本や、
例えば、面会に来た友人たちが帰った後の寂しそうな父の顔や、
例えば、意識が混濁した父と寄り添う母の壮絶な、けれど愛に満ちた姿や、
例えば、懸命に自分を抱きしめたことを
あのとき、必死で見つめたものや必死で聞いた音を
生きる力を
私は忘れないだろう、と思う。
時間は止まっているようで確実に流れていて、
その流れに上手く乗れずに立ち止まっているようでいて、
ほんの少しずつではあるけれど、確実に変化しているものも、ある。
あれからもう、半年近くが経って、それでもまだ、泣けてしまうけれど。
新しい季節が巡ってくる度に、父がいたその季節のことを思い出して泣けてしまうけれど。
取り残されているような、流されているような、歪んだ時間の中で、
私は、私たちは、前進しようとしている。
桜の季節がまた来る。
祈る。
今日で阪神・淡路大震災から丸10年を迎えましたね。
あの日は普通に目を覚まし、いつものように何気なくTVをつけて震災のニュースを目にしたの
だった。神戸はあたしが生まれた街でもある。離れて10年以上も月日が経っていたし、住んで
いたのは小さな子供の頃だったので連絡を取り合っている友達がいるわけでもなかったけれど、
父や母の知人が多く住んでいることは知っていたし、少なからずショックを受けた。
遠く離れてTVの画面を見るだけのあたしですらショックだったのだから、実際にそこで生活
していた人たちのショックははかりしれない、と思う。
10年前のこの日、多くの魂が失われた。自分の命を失わないまでも、大切な人を失った人、
心が傷ついた人は多いだろうと思います。復興が進んだとはいえ、今なお、精神的なショック
から立ち直れていない方が数多くいる。
各地で追悼式典が行われている。祈りを捧げる人々の顔が、あの日と同じようにニュースで
流れる。
奇しくも今日はあたしにとって、父の百か日でもある。
祈るということ。祈るという行為が、その方法が、あたしにはよく、わからなかった。
もちろん祈るという言葉は知っている。感覚的な意味もわかる。けれど、祈りを捧げようと
したときに、具体的にどのようにしたらいいのかわからなかった。作法というか、心構えとして。
父が亡くなって初めて、祈るという行為がわかりかけた気がする。
まだ、上手く言葉にできないけれど。
今日この日、多くの人が様々な場所で、様々な立場で祈りを捧げている。
今のあたしは、自分のまわりの小さな宇宙を守るのに精一杯で、どこかで何かが起きても、
祈ることしかできないのだけれど。
それでも、祈る。祈り続ける。
あの日は普通に目を覚まし、いつものように何気なくTVをつけて震災のニュースを目にしたの
だった。神戸はあたしが生まれた街でもある。離れて10年以上も月日が経っていたし、住んで
いたのは小さな子供の頃だったので連絡を取り合っている友達がいるわけでもなかったけれど、
父や母の知人が多く住んでいることは知っていたし、少なからずショックを受けた。
遠く離れてTVの画面を見るだけのあたしですらショックだったのだから、実際にそこで生活
していた人たちのショックははかりしれない、と思う。
10年前のこの日、多くの魂が失われた。自分の命を失わないまでも、大切な人を失った人、
心が傷ついた人は多いだろうと思います。復興が進んだとはいえ、今なお、精神的なショック
から立ち直れていない方が数多くいる。
各地で追悼式典が行われている。祈りを捧げる人々の顔が、あの日と同じようにニュースで
流れる。
奇しくも今日はあたしにとって、父の百か日でもある。
祈るということ。祈るという行為が、その方法が、あたしにはよく、わからなかった。
もちろん祈るという言葉は知っている。感覚的な意味もわかる。けれど、祈りを捧げようと
したときに、具体的にどのようにしたらいいのかわからなかった。作法というか、心構えとして。
父が亡くなって初めて、祈るという行為がわかりかけた気がする。
まだ、上手く言葉にできないけれど。
今日この日、多くの人が様々な場所で、様々な立場で祈りを捧げている。
今のあたしは、自分のまわりの小さな宇宙を守るのに精一杯で、どこかで何かが起きても、
祈ることしかできないのだけれど。
それでも、祈る。祈り続ける。
2ヶ月。
今年もそろそろ終わろうとしている。去年の今頃は結婚するなんて思ってもなかったし、まして
父さんがいなくなってるなんて、思いもしなかった。
父が逝ってから2ヶ月が経った。今日で調度、2ヶ月。あたしたちは前に進めたか?と思う。
父の不在に慣れた。でも、慣れるのと、寂しいと感じてしまうことは別だなって思う。
心にぽっかりと穴が空く、という表現があるけれど、そんな感じ。すっごく、その感じがリアル
にわかる。今なら。
「この家にひとりでいるのは嫌なのよねー。しなきゃならないことがいっぱいあるのはわかって
いるんだけど、する気になれないし。」
という母。弟のアパートで1人で過ごすのは平気という。
・・・すごく、わかる。この家には、父の記憶が染みついているから。壁の白さをみるだけで父の
ことを思ってしまう。去年、せっせと壁紙を塗った父の姿を思い出す。会社から帰ると壁が少し
ずつきれいなっていて、だけど窓は全開になっていて、だからあたしは寒いよー、って何度か
抗議した。もちろんそんな軟弱な意見は涼しい顔で無視されたけど。
夜中に父と2人で映画をみたことを思い出す。明かりを消して、コタツに寝ころんで、古い映画
を観た。『アラビアのロレンス』とか『シェーン』とかの。父の蘊蓄を聞きながら。
もうこの家で、暗がりの中でブラウン管の明るさを見つめることはないと思う。「暗いと寂しい」
と、父が逝ってから明かりをつけたまま眠るようになった母のために。
今日は母と2人で銭湯に行った。銭湯に行くのは気持ち的に楽。女湯に、父の思い出はさすが
にないからね。垢擦りもしてもらった。気持ちよかった。
帰りの車の中で久しぶりにしみじみと(?)話した。
「父さんがいないから旅行に行く気にもなれないし、本当に、生きる楽しみがなくなった気が
するわ。」
「なーに言ってんだい。生きてればいいことあるよ。」
「そうかなあ、あるかなあ?」
「これから孫が生まれるかも知れないしぃ、だってあなた、あと30年は生きるでしょうがぁ。
再婚とかだって、あり得る。新たな出会いがあるかもよー。」
「ない、ない。・・・好きな人ができたとしても、再婚はないわ。父さんほどの人がいるようには
思えない。顔とかはさー、父さんより格好いい人いっぱいいると思うけどさー、父さんほど、
安心させてくれる人はいないと思う。」
そりゃそうだ。と、思う。
「でもある意味ものすごく自由だよね。小さい子がいるとかじゃないしね。まだ受験が終わって
ない子、とかいたら大変だけど。」
「そうなのよねー、そしたら明日からどうしようー?とか思うのかも知れないけど。」
「何ならこのままずーっと家にいたって、あの家に住むだけなら向こう30年、普通に安泰よね。
年に1回や2回、旅行に行ったとしても、普通に年金とかで暮らせちゃうよね。」
「豪邸とかは買えないけどね。1人なら、余るかなあ。」
呑気さを装って話していても、心が、痛い。明るく振る舞っていても、母が未来に希望が持て
ないでいるのはわかる。だから、心が、痛い。ため息を隠すかわりに、吸いたくもない煙草に
火をつけた。人に、希望を抱かせることは、途方もなく難しい。と、思う。
「お正月の飾りとかもさ、毎年今頃には買ってるんだけど、今年はみて『これかわいー』とか
思うんだけど、買うには至らないのよね。なんか、虚しくて。」
「買いなさいよー。来るわよ、きゅぶ。見せてあげなさいよー。」
2ヶ月。確実に時間は流れている。
あたしたちは少しでも前に進めているのだろうか?
マンションの廊下から見える、間抜けにイルミネーションを飾っている家を見ながら、思った。
時間にまかせるしかないことが、歯痒い。
父さんがいなくなってるなんて、思いもしなかった。
父が逝ってから2ヶ月が経った。今日で調度、2ヶ月。あたしたちは前に進めたか?と思う。
父の不在に慣れた。でも、慣れるのと、寂しいと感じてしまうことは別だなって思う。
心にぽっかりと穴が空く、という表現があるけれど、そんな感じ。すっごく、その感じがリアル
にわかる。今なら。
「この家にひとりでいるのは嫌なのよねー。しなきゃならないことがいっぱいあるのはわかって
いるんだけど、する気になれないし。」
という母。弟のアパートで1人で過ごすのは平気という。
・・・すごく、わかる。この家には、父の記憶が染みついているから。壁の白さをみるだけで父の
ことを思ってしまう。去年、せっせと壁紙を塗った父の姿を思い出す。会社から帰ると壁が少し
ずつきれいなっていて、だけど窓は全開になっていて、だからあたしは寒いよー、って何度か
抗議した。もちろんそんな軟弱な意見は涼しい顔で無視されたけど。
夜中に父と2人で映画をみたことを思い出す。明かりを消して、コタツに寝ころんで、古い映画
を観た。『アラビアのロレンス』とか『シェーン』とかの。父の蘊蓄を聞きながら。
もうこの家で、暗がりの中でブラウン管の明るさを見つめることはないと思う。「暗いと寂しい」
と、父が逝ってから明かりをつけたまま眠るようになった母のために。
今日は母と2人で銭湯に行った。銭湯に行くのは気持ち的に楽。女湯に、父の思い出はさすが
にないからね。垢擦りもしてもらった。気持ちよかった。
帰りの車の中で久しぶりにしみじみと(?)話した。
「父さんがいないから旅行に行く気にもなれないし、本当に、生きる楽しみがなくなった気が
するわ。」
「なーに言ってんだい。生きてればいいことあるよ。」
「そうかなあ、あるかなあ?」
「これから孫が生まれるかも知れないしぃ、だってあなた、あと30年は生きるでしょうがぁ。
再婚とかだって、あり得る。新たな出会いがあるかもよー。」
「ない、ない。・・・好きな人ができたとしても、再婚はないわ。父さんほどの人がいるようには
思えない。顔とかはさー、父さんより格好いい人いっぱいいると思うけどさー、父さんほど、
安心させてくれる人はいないと思う。」
そりゃそうだ。と、思う。
「でもある意味ものすごく自由だよね。小さい子がいるとかじゃないしね。まだ受験が終わって
ない子、とかいたら大変だけど。」
「そうなのよねー、そしたら明日からどうしようー?とか思うのかも知れないけど。」
「何ならこのままずーっと家にいたって、あの家に住むだけなら向こう30年、普通に安泰よね。
年に1回や2回、旅行に行ったとしても、普通に年金とかで暮らせちゃうよね。」
「豪邸とかは買えないけどね。1人なら、余るかなあ。」
呑気さを装って話していても、心が、痛い。明るく振る舞っていても、母が未来に希望が持て
ないでいるのはわかる。だから、心が、痛い。ため息を隠すかわりに、吸いたくもない煙草に
火をつけた。人に、希望を抱かせることは、途方もなく難しい。と、思う。
「お正月の飾りとかもさ、毎年今頃には買ってるんだけど、今年はみて『これかわいー』とか
思うんだけど、買うには至らないのよね。なんか、虚しくて。」
「買いなさいよー。来るわよ、きゅぶ。見せてあげなさいよー。」
2ヶ月。確実に時間は流れている。
あたしたちは少しでも前に進めているのだろうか?
マンションの廊下から見える、間抜けにイルミネーションを飾っている家を見ながら、思った。
時間にまかせるしかないことが、歯痒い。
『両親への手紙』
今日まで、私のことを見守っていてくれてありがとう。
改めて手紙を書こうとすると、どう伝えたらいいのか戸惑ってしまう。
お母さん、
私の最大の理解者であり、味方であるのはあなただと思います。
この2ヶ月間、本当に大変だったし辛かったよね。哀しむ余裕すらなかった。
本当にお疲れ様。
父さんに必至で付き添う姿を、明るく気丈に人と接する姿を、哀しみの涙を流す姿を、あなた
の頑張りを、愛を、戦う姿を私はみていた。それは、娘である私でさえ、立ち入れるものでは
なかった。だから、必死で見つめてきました。一人の人間を愛するということはどういうことか、
まざまざと見た思いです。
日々起こるさまざまなこと、私が多くを語らないままでも、私の正義感や、ずるい部分も含め、
心配し、小言を言いながらも肯定し続けてくれたあなたを、これからは少しでも支えることが
出来れば、と思います。
お父さん、
あなたは常に『背中を押す人』だった。
10代後半の背伸びをしたがった私にとって、あなたは気難しい、大きな壁でした。色のついた
リップクリームに激怒し、長電話をしていると部屋に怒鳴り込み、門限に間に合わせようと
走っても、たとえ3分でも過ぎたら問答無用でひっぱたいた。それが、20歳を過ぎるとそれまで
の厳しさからは考えられないほど何も言わなくなりましたね。それどころか、恐る恐る打ち明け
た考えを後押ししてくれた。
今なら、何故あの頃の一時期、厳しくあたったのかがわかる気がします。
ただ、私が自分で責任が取れる範囲を超えて背伸びをすることを許さなかったというだけ。
ただ、私が周りの大人たちから疎まれる存在になることを恐れただけ。
ただ、私の幸福を願いながら。
私のことを心配し、日々の細かな感情の動きを理解してくれるのが母なら、無謀な、だけど
私なりに大切な冒険心を黙って受け入れてくれるのが父でした。父の沈黙は、いかなる結果
が待っていようとそのあとを支えてやるという保障になりえました。だから私は、不安で後ろを
振り返りながらも新しい世界に飛び込むことが出来ました。
けれど、その父は、ここにはいません。
「モーニングの試着にいかなあかんなあ」と言っていたのは、10月に入ってからのことでした。
結婚式でヴァージンロードを歩くために、歩く練習もしていたのにね。この日を、本当に楽しみ
にしていたのは父さんなのに。寂しい。とても寂しく思います。
「人生は美しき旅路。何があったとしても、そういって笑っていたい。」
そう言ったのはきゅぶでした。
1ヵ月半、病床での父の姿を、生きようとする力を、頑張る姿を、壮絶で安らかな死を見つめ、
多くのことを学びました。
生きていくことは楽しいことばかりじゃありません。
大切な人を失った今、そのことを強く思います。けして楽しいことばかりじゃない。
全てが空しく感じることもあります。全てから逃げだしてしまいたくなることもあります。
そして、背中を押す父は、もう、いない。
けれど、力強い、希望に満ちた言葉を放った彼が、隣にいます。後ろを振り返りながら恐る恐る
進むのではなく、その言葉をくれた彼と、父が最後に教えてくれた生きることの力強さを心の糧
に、真っ直ぐ前を見て、歩いていこうと思います。
それから、弟へ。
君は今、大変なプレッシャーを感じていることでしょう。でも、これだけは覚えていて。
私は、君を誇りに思う。
私は、本当にたくさんの愛を、家族からもらったと思います。ありがとう。
お父さん、お母さんの娘でよかったと、今、心からそう思います。
2004.10.30 そら
改めて手紙を書こうとすると、どう伝えたらいいのか戸惑ってしまう。
お母さん、
私の最大の理解者であり、味方であるのはあなただと思います。
この2ヶ月間、本当に大変だったし辛かったよね。哀しむ余裕すらなかった。
本当にお疲れ様。
父さんに必至で付き添う姿を、明るく気丈に人と接する姿を、哀しみの涙を流す姿を、あなた
の頑張りを、愛を、戦う姿を私はみていた。それは、娘である私でさえ、立ち入れるものでは
なかった。だから、必死で見つめてきました。一人の人間を愛するということはどういうことか、
まざまざと見た思いです。
日々起こるさまざまなこと、私が多くを語らないままでも、私の正義感や、ずるい部分も含め、
心配し、小言を言いながらも肯定し続けてくれたあなたを、これからは少しでも支えることが
出来れば、と思います。
お父さん、
あなたは常に『背中を押す人』だった。
10代後半の背伸びをしたがった私にとって、あなたは気難しい、大きな壁でした。色のついた
リップクリームに激怒し、長電話をしていると部屋に怒鳴り込み、門限に間に合わせようと
走っても、たとえ3分でも過ぎたら問答無用でひっぱたいた。それが、20歳を過ぎるとそれまで
の厳しさからは考えられないほど何も言わなくなりましたね。それどころか、恐る恐る打ち明け
た考えを後押ししてくれた。
今なら、何故あの頃の一時期、厳しくあたったのかがわかる気がします。
ただ、私が自分で責任が取れる範囲を超えて背伸びをすることを許さなかったというだけ。
ただ、私が周りの大人たちから疎まれる存在になることを恐れただけ。
ただ、私の幸福を願いながら。
私のことを心配し、日々の細かな感情の動きを理解してくれるのが母なら、無謀な、だけど
私なりに大切な冒険心を黙って受け入れてくれるのが父でした。父の沈黙は、いかなる結果
が待っていようとそのあとを支えてやるという保障になりえました。だから私は、不安で後ろを
振り返りながらも新しい世界に飛び込むことが出来ました。
けれど、その父は、ここにはいません。
「モーニングの試着にいかなあかんなあ」と言っていたのは、10月に入ってからのことでした。
結婚式でヴァージンロードを歩くために、歩く練習もしていたのにね。この日を、本当に楽しみ
にしていたのは父さんなのに。寂しい。とても寂しく思います。
「人生は美しき旅路。何があったとしても、そういって笑っていたい。」
そう言ったのはきゅぶでした。
1ヵ月半、病床での父の姿を、生きようとする力を、頑張る姿を、壮絶で安らかな死を見つめ、
多くのことを学びました。
生きていくことは楽しいことばかりじゃありません。
大切な人を失った今、そのことを強く思います。けして楽しいことばかりじゃない。
全てが空しく感じることもあります。全てから逃げだしてしまいたくなることもあります。
そして、背中を押す父は、もう、いない。
けれど、力強い、希望に満ちた言葉を放った彼が、隣にいます。後ろを振り返りながら恐る恐る
進むのではなく、その言葉をくれた彼と、父が最後に教えてくれた生きることの力強さを心の糧
に、真っ直ぐ前を見て、歩いていこうと思います。
それから、弟へ。
君は今、大変なプレッシャーを感じていることでしょう。でも、これだけは覚えていて。
私は、君を誇りに思う。
私は、本当にたくさんの愛を、家族からもらったと思います。ありがとう。
お父さん、お母さんの娘でよかったと、今、心からそう思います。
2004.10.30 そら
『背中を押す人』
私が振り返りながら遠くに行こうとするとき、背中を押してくれるのはいつも父だという気がする。
早くに両親をなくした父は、奨学金で学費を払い、アルバイトで稼ぎ、大学を出て社会に出た。賢明に仕事をする一方で、自分の家族を喜ばすことに心を砕いた。私から見れば、誰よりも父親たらんとした父。
仕事柄、家にいるのは少なかったけれど、子供の頃は毎年のように家族で旅行した。遠くに出かけると、必ずお土産を買ってきた。相談すれば、お前のやりたいようにやれと言ってくれた。高校入学祝いとして従兄と二人で行った初めての海外旅行も父のはからいだった。
高校生になり、私は背伸びをしたがった。そんな私にとって、父は気難しい、大きな壁だった。色のついたリップクリームを塗っただけで叱りつけた。少々遅くまで遊んで門限に間に合わせようと走っても、5分過ぎただけでひっぱたいた。夜更けに長電話をしていると部屋に怒鳴り込んだ。私には私の世界がある。価値観がある。世代が違うのだから理解しろとは言わないけれど認めてよ。
そんな大人になりかけた子供らしい傲慢さで、私は父に逆らった。べったりと、その庇護の元にいながら。
10代後半だった何年間か、どうして厳しくあたったのか、今ならわかる気がする。ただ、私が自分で責任がとれる範囲を超えて背伸びをすることを、許さなかったというだけだ。ただ、私が周りの大人たちから疎まれる存在になるのを恐れただけだ。ただ、私の幸福を願いながら。
成人して、それまでの厳しさからは考えられないほど何も言わなくなった。むしろ、内心びくびくしながら少々無謀な私の考えをうち明けたときは、いつも言葉少なに、けれど肯定した。次の就職先も決めずに会社を辞めて旅に出ると言ったあのときも。
結婚を決めたとき、誰よりもそのことを喜んだのはきっと父だろう。
私のことを心配し、日々の細かな感情の動きを理解してくれるのが母だとすれば、無謀な、だけど私なりに大切な冒険心を黙って受け入れてくれるのが父だと思う。父の沈黙は、そのあといかなる結果が待っていようと、そのあとを支えてやるという保証になりうる。だから私は、不安で後を振り返りながらも新しい世界に飛び込むことが出来た。
子供の頃から今に至るまで、いつでも父は私の味方だった。
そんな父を私は尊敬し、感謝している。
お父さん、ありがとう。あなたの娘でよかったです。
照れくさいなんて言わないで、一緒にヴァージンロード、歩いてね。
50代後半にして現役ゲーマーの父。
ここで言っているのも、父に贈るメッセージではあります(笑)。
堅い側面ばかりをクローズアップしましたが、こんなおちゃめなところもある父も大好き。
追記:
6月、「父の日に贈るメッセージは?」にトラックバックしたものを再投稿。
結婚式にアレンジして手紙を読むつもりだったので、父にここで書いた内容を伝えられなかった。
それが、ものすごく寂しい。
こんなに早く逝ってしまうなんて思ってなかったし。
ヴァージンロード、一緒に歩きたかったな。
早くに両親をなくした父は、奨学金で学費を払い、アルバイトで稼ぎ、大学を出て社会に出た。賢明に仕事をする一方で、自分の家族を喜ばすことに心を砕いた。私から見れば、誰よりも父親たらんとした父。
仕事柄、家にいるのは少なかったけれど、子供の頃は毎年のように家族で旅行した。遠くに出かけると、必ずお土産を買ってきた。相談すれば、お前のやりたいようにやれと言ってくれた。高校入学祝いとして従兄と二人で行った初めての海外旅行も父のはからいだった。
高校生になり、私は背伸びをしたがった。そんな私にとって、父は気難しい、大きな壁だった。色のついたリップクリームを塗っただけで叱りつけた。少々遅くまで遊んで門限に間に合わせようと走っても、5分過ぎただけでひっぱたいた。夜更けに長電話をしていると部屋に怒鳴り込んだ。私には私の世界がある。価値観がある。世代が違うのだから理解しろとは言わないけれど認めてよ。
そんな大人になりかけた子供らしい傲慢さで、私は父に逆らった。べったりと、その庇護の元にいながら。
10代後半だった何年間か、どうして厳しくあたったのか、今ならわかる気がする。ただ、私が自分で責任がとれる範囲を超えて背伸びをすることを、許さなかったというだけだ。ただ、私が周りの大人たちから疎まれる存在になるのを恐れただけだ。ただ、私の幸福を願いながら。
成人して、それまでの厳しさからは考えられないほど何も言わなくなった。むしろ、内心びくびくしながら少々無謀な私の考えをうち明けたときは、いつも言葉少なに、けれど肯定した。次の就職先も決めずに会社を辞めて旅に出ると言ったあのときも。
結婚を決めたとき、誰よりもそのことを喜んだのはきっと父だろう。
私のことを心配し、日々の細かな感情の動きを理解してくれるのが母だとすれば、無謀な、だけど私なりに大切な冒険心を黙って受け入れてくれるのが父だと思う。父の沈黙は、そのあといかなる結果が待っていようと、そのあとを支えてやるという保証になりうる。だから私は、不安で後を振り返りながらも新しい世界に飛び込むことが出来た。
子供の頃から今に至るまで、いつでも父は私の味方だった。
そんな父を私は尊敬し、感謝している。
お父さん、ありがとう。あなたの娘でよかったです。
照れくさいなんて言わないで、一緒にヴァージンロード、歩いてね。
50代後半にして現役ゲーマーの父。
ここで言っているのも、父に贈るメッセージではあります(笑)。
堅い側面ばかりをクローズアップしましたが、こんなおちゃめなところもある父も大好き。
追記:
6月、「父の日に贈るメッセージは?」にトラックバックしたものを再投稿。
結婚式にアレンジして手紙を読むつもりだったので、父にここで書いた内容を伝えられなかった。
それが、ものすごく寂しい。
こんなに早く逝ってしまうなんて思ってなかったし。
ヴァージンロード、一緒に歩きたかったな。
告別式。
12日のお通夜。のあとは13日の、告別式。
目が覚めたら8時過ぎだった。弟が隣で眠っていた。控え室の扉をそろそろ開けて外に出ると、
stepbros兄貴ときゅぶが廊下の椅子で横になって眠っていた。
雨。涙雨が降っていた。
母と、父方の親戚のゴッドマザー、Kさんとその娘Hちゃんとシャワーを浴びに家に戻る。
お墓の話をした。あたしたち(母、弟、あたし)は、こっちに作りたい。だけど、父の妹たちは
奈良の、父の両親、義母が眠るところに入れたいようだ。
実際問題、奈良に父のお墓があってもあたしたちはそうそう行けない。管理すること自体に
無理がある。弟もあたしも生活の基盤は関東にあって、母の親戚が奈良にいるわけじゃない。
あたしたち家族が奈良に移り住むことはあり得ない以上、そこにあっても困るわけ。
奈良の中でも不便なとこにあるし、仏事で奈良に行くにしても日帰りは無理。かといって
気兼ねなく泊まれる場所があるわけじゃないしね。
それに、父の両親と義母の3人が眠る墓には、あたしは嫌な思い出があるので絶対に嫌だった。
だけど、奈良に入れることにしたら、少なくともお寺さんは決まっているから戒名はすぐに
つけてもらえるし、墓地を買うことなどは考えなくてもよくは、なる。だけど。
ゴッドマザーの意見は、「それは無理。こっちにしたらええやんか。」だった。
葬儀場に戻ると皆起き出していた。告別式は12時からだった。葬儀屋がこっそりと
「あのお坊さん、大丈夫ですか?気難しいんですよねー。」
と言った。全然平気ですよー?と言っておいた。
また、黒のスーツに着替える。パールのネックレスをつける。
12時。告別式が始まる。導師さまが入場し、お経を読む。
弔辞。父の会社関係の方が読み上げる。父の後輩に当たる人。手が、驚くほどふるえていた。
父の高校時代の友人が読み上げる。涙で声が詰まる。思い出が、語られた。
弔電が読まれる。
「仕事に励み、友を愛し、家族を愛し・・・」
父が、そのような人だと会社関係の人も認めているという事実が単純に嬉しく、哀しかった。
告別式にもまた、多くの人が参列していた。全ての人のお焼香が終わる。
椅子が片付けられ、父の眠る棺が真ん中に置かれた。
手紙と、ブックカバーをつけた文庫本を入れた。
ブックカバーは、前にプレゼントして、けれど一緒に会社に行くある朝、電車の中で開いた
文庫本は本屋でくれる紙のカバーをしているから、「どうしたの?」と聞いたら、
「無くしてしもうたんや。」というから、新しいの買ってきてあげるよ、と約束して、手に入れる前に
父は入院してしまっていた。
花を入れる。たくさんの献花と、たくさんの参列者のおかげで、埋まるほどだった。
蓋が閉まらないんじゃないかと思うほどの花。
出棺の挨拶を弟がした。「口数の少ない父でした。背中で語る、父でした。」
いい、挨拶だった。
母が位牌を、あたしが遺影を持った。
火葬場へ向かうマイクロバスは2台になった。それでも、乗り切らず、葬儀場で待つ人もいた。
棺を設置し、お経が読まれる。最後の、挨拶。
窯の中に入れられた。参列者が散り散りになり、あたしは1人にしてもらい、しばらく残って、
見ていた。出るとき、振り返り、小さく手を振った。
外に出て、煙草を吸う。涙雨が降っていた。
こみ上げてくるものがあり、泣いた。声を出して泣いた。弟が来て、あたしの肩を抱いた。
弟の黒いスーツに、うつむいているあたしの涙が流れ落ちた。
中に入ると、葬儀屋が埋葬許可証と分骨許可証の発行手続きをお願いします、と声をかけた。
泣いている暇はなかった。事務所に通され、安っぽい応接セットに座り、書類に署名した。
父が焼かれる間、控え室で導師さまに今後の仏事やお墓について相談する。丁寧に、
わかりやすく答えてくれた。真言宗高野山派の、古めかしく、非常に興味深い仏事、その考え方
について教えていただいた。
葬儀屋が呼びに来た。弟と2人、事務所に出向く。許可証が発行され、受け取った。
そのまま、窯の前に案内される。父のお骨が出てくるところだった。真っ白で太い、お骨だった。
お骨を拾う場へ通される。他の参列者もそこにいた。順番に骨を拾う。美しい白だった。
弟が大きな骨壺を、母が位牌を、あたしが分骨した小さな骨壺を、そしてきゅぶが遺影を持った。
葬儀場に戻る。清めの塩をかけてもらい、お水で手を洗った。60~70人の人が残っていた。
初七日の法要が始まる。お焼香の香炉が回ってくる。精進落としの挨拶を母がし、
献杯の挨拶をあたしがした。
「あと2週間で、私の結婚式でした。あと2週間だったのに残念です。
けれど、父は、明るい結婚式の後に哀しいお葬式を行うよりも、哀しいお葬式の後に、
明るい未来に繋がる結婚式をした方がよいと思ったに違いありません。
だから、寂しいけれど、今は、明るく笑っていってらっしゃいと、手を、振ろうと思います。」
食事が終わり、葬儀屋から締めの挨拶があった。ご長女様の結婚式も近いということで、
故人もお心残りではあったと思いますが、故人の分まで、お幸せになっていただきたいと
思います。
そんな挨拶だった。
人々が、帰り始めた。あたしたちも荷物をまとめ、挨拶をして車に乗り込む。
雨は、上がっていた。
目が覚めたら8時過ぎだった。弟が隣で眠っていた。控え室の扉をそろそろ開けて外に出ると、
stepbros兄貴ときゅぶが廊下の椅子で横になって眠っていた。
雨。涙雨が降っていた。
母と、父方の親戚のゴッドマザー、Kさんとその娘Hちゃんとシャワーを浴びに家に戻る。
お墓の話をした。あたしたち(母、弟、あたし)は、こっちに作りたい。だけど、父の妹たちは
奈良の、父の両親、義母が眠るところに入れたいようだ。
実際問題、奈良に父のお墓があってもあたしたちはそうそう行けない。管理すること自体に
無理がある。弟もあたしも生活の基盤は関東にあって、母の親戚が奈良にいるわけじゃない。
あたしたち家族が奈良に移り住むことはあり得ない以上、そこにあっても困るわけ。
奈良の中でも不便なとこにあるし、仏事で奈良に行くにしても日帰りは無理。かといって
気兼ねなく泊まれる場所があるわけじゃないしね。
それに、父の両親と義母の3人が眠る墓には、あたしは嫌な思い出があるので絶対に嫌だった。
だけど、奈良に入れることにしたら、少なくともお寺さんは決まっているから戒名はすぐに
つけてもらえるし、墓地を買うことなどは考えなくてもよくは、なる。だけど。
ゴッドマザーの意見は、「それは無理。こっちにしたらええやんか。」だった。
葬儀場に戻ると皆起き出していた。告別式は12時からだった。葬儀屋がこっそりと
「あのお坊さん、大丈夫ですか?気難しいんですよねー。」
と言った。全然平気ですよー?と言っておいた。
また、黒のスーツに着替える。パールのネックレスをつける。
12時。告別式が始まる。導師さまが入場し、お経を読む。
弔辞。父の会社関係の方が読み上げる。父の後輩に当たる人。手が、驚くほどふるえていた。
父の高校時代の友人が読み上げる。涙で声が詰まる。思い出が、語られた。
弔電が読まれる。
「仕事に励み、友を愛し、家族を愛し・・・」
父が、そのような人だと会社関係の人も認めているという事実が単純に嬉しく、哀しかった。
告別式にもまた、多くの人が参列していた。全ての人のお焼香が終わる。
椅子が片付けられ、父の眠る棺が真ん中に置かれた。
手紙と、ブックカバーをつけた文庫本を入れた。
ブックカバーは、前にプレゼントして、けれど一緒に会社に行くある朝、電車の中で開いた
文庫本は本屋でくれる紙のカバーをしているから、「どうしたの?」と聞いたら、
「無くしてしもうたんや。」というから、新しいの買ってきてあげるよ、と約束して、手に入れる前に
父は入院してしまっていた。
花を入れる。たくさんの献花と、たくさんの参列者のおかげで、埋まるほどだった。
蓋が閉まらないんじゃないかと思うほどの花。
出棺の挨拶を弟がした。「口数の少ない父でした。背中で語る、父でした。」
いい、挨拶だった。
母が位牌を、あたしが遺影を持った。
火葬場へ向かうマイクロバスは2台になった。それでも、乗り切らず、葬儀場で待つ人もいた。
棺を設置し、お経が読まれる。最後の、挨拶。
窯の中に入れられた。参列者が散り散りになり、あたしは1人にしてもらい、しばらく残って、
見ていた。出るとき、振り返り、小さく手を振った。
外に出て、煙草を吸う。涙雨が降っていた。
こみ上げてくるものがあり、泣いた。声を出して泣いた。弟が来て、あたしの肩を抱いた。
弟の黒いスーツに、うつむいているあたしの涙が流れ落ちた。
中に入ると、葬儀屋が埋葬許可証と分骨許可証の発行手続きをお願いします、と声をかけた。
泣いている暇はなかった。事務所に通され、安っぽい応接セットに座り、書類に署名した。
父が焼かれる間、控え室で導師さまに今後の仏事やお墓について相談する。丁寧に、
わかりやすく答えてくれた。真言宗高野山派の、古めかしく、非常に興味深い仏事、その考え方
について教えていただいた。
葬儀屋が呼びに来た。弟と2人、事務所に出向く。許可証が発行され、受け取った。
そのまま、窯の前に案内される。父のお骨が出てくるところだった。真っ白で太い、お骨だった。
お骨を拾う場へ通される。他の参列者もそこにいた。順番に骨を拾う。美しい白だった。
弟が大きな骨壺を、母が位牌を、あたしが分骨した小さな骨壺を、そしてきゅぶが遺影を持った。
葬儀場に戻る。清めの塩をかけてもらい、お水で手を洗った。60~70人の人が残っていた。
初七日の法要が始まる。お焼香の香炉が回ってくる。精進落としの挨拶を母がし、
献杯の挨拶をあたしがした。
「あと2週間で、私の結婚式でした。あと2週間だったのに残念です。
けれど、父は、明るい結婚式の後に哀しいお葬式を行うよりも、哀しいお葬式の後に、
明るい未来に繋がる結婚式をした方がよいと思ったに違いありません。
だから、寂しいけれど、今は、明るく笑っていってらっしゃいと、手を、振ろうと思います。」
食事が終わり、葬儀屋から締めの挨拶があった。ご長女様の結婚式も近いということで、
故人もお心残りではあったと思いますが、故人の分まで、お幸せになっていただきたいと
思います。
そんな挨拶だった。
人々が、帰り始めた。あたしたちも荷物をまとめ、挨拶をして車に乗り込む。
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